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高松地方裁判所丸亀支部 昭和44年(た)1号 判決 1972年9月30日

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

第一、本件再審請求にいたる経緯

請求人は、「昭和二五年二月二八日午前二時過ぎ頃、香川県三豊郡財田村(現財田町)大字財田上七、〇八九番地の三闇米ブローカー香川重雄(当時六三年)方に侵入し、奥四畳の間で就寝していた右香川の顔面、頭部、腰部、胸部などを、所携の刺身包丁で、突く、切るなどして殺害し、同人着用の胴巻から現金一万三、〇〇〇円位を強奪した」旨の強盗殺人事件により、同年八月二三日、原審である当裁判所に起訴され、同二七年二月二〇日、死刑の有罪判決を受け、同日高松高等裁判所に控訴したが、同三一年六月八日控訴棄却の判決を言渡され、上告したが同三二年一月二二日上告を棄却され、第一審判決が確定した。

右確定判決に対し、請求人は、当裁判所に対し昭和三二年三月二六日付第一回目の再審請求をしたが、同三三年三月二〇日請求棄却の決定がなされた。

その後、第二回目として、同四四年四月三日付および同四五年五月一五日付(理由追加)で、本件の再審請求がなされた(本件再審記録―以下単に再という―一丁、三一四丁)。

第二、本件再審請求理由の要旨

本件再審請求の理由とするところは、形式も整わず、その内容は必ずしも明確ではないのであるが、各意見書をも斟酌して、次のとおりに要約する。

一、真犯人の存在

かつて、請求人と共に若松拘置所(旧大阪拘置所)に拘禁されていた請求人と同郷の友人石井方明は、右拘置所内で請求人に対し、青ざめた顔で言葉をふるわせながら、「すまないことをした」と詫びたことがあり、同人が香川重雄殺害の真犯人である。

二、手記五通の偽造

請求人作成名義の昭和二五年八月二日付、同月一七日付(二通)、同月一九日付、同月二四日付の手記五通は、当時無学文盲の請求人において作成した事実はなく、偽造されたものであり、また、請求人はこれら手記の存在を本件再審請求事件の審理途中まで全く知らなかつた。

三、証二〇号国防色ズボンのすり替え

原判決が証拠に引用している証二〇号国防色ズボンは、請求人のものではなく、請求人において着用したことはない。

請求人は、別件強盗傷人事件により、当時着用していた国防色下衣(旧陸軍のすそにひも付のもの)を国防色上衣とともに押収され、右事件の公判審理に証拠物として提出後、これらを還付されたことがあるが、右国防色下衣は証二〇号国防色ズボンとは異なる。証二〇号国防色ズボンは当時警察官であつた実兄谷口勉が官より支給せられ、その後実弟谷口孝が着用していたのを、請求人の勾留中、警察官が脱がせて持帰つたものであり、これを強盗傷人事件で押収した国防色下衣と同一であるというのは、証拠物をすり替えた結果によるものである。

四、国防色ズボンに付着している血痕について

証二〇号国防色ズボンは、元警察官をしていた請求人の実兄勉の制服ズボンであり、血痕が付着しているとすれば、それは、右勉が、昭和二四年五月七日、岩川光照なる鉄道自殺者の死体を検視した際、死体の血液が右ズボンに付着したものと考えられるもので、請求人は原判決の確定前にこの事実を知らなかつた。

五、国防色ズボン付着の血痕の性別検査について

昭和三五年一一月二四日付朝日新聞記事によれば、鹿児島大学法医学教室が、犯罪現場の古い血液から、その血液保有者の性別を識別することに成功したとの由であるので、証二〇号国防色ズボンに付着しているとされている血痕を再鑑定して、該血液の保有者の男女性別を明らかにされたい。

六、血痕足跡と短靴について

犯行現場に遺留された血痕足跡と一致する短靴(犯行時請求人が履いていたという)が発見されたというのに、これが原審公判審理に証拠品として提出されていないのは、同短靴が現場の血痕足跡と一致しなかつたからではないか。

七、兇器の刺身包丁について

請求人が、犯行の帰途轟橋から投棄したと自白している刺身包丁が、遂に発見できなかつたというのは、右自白が虚偽で、投棄した事実がないからではなかろうか。

八、「二度突き」の自白について

本件強盗殺人事件の被害者香川重雄に対する胸部傷害のうち、いわゆる「二度突き」についての請求人の自白は、たとえ真実に合致はしていても、取調警察官宮脇豊らの誘導によるものであつて、請求人の任意の供述ではない。

九、本件は強盗事件ではない

被害者の胴巻や財布に血痕が付着していないのは、犯人がこれらに手をかけていないためであり、請求人が強取したとされている一万三、〇〇〇円の使途も明らかでなく、残金八、〇〇〇円を投棄した旨の供述は、事実とは認められず、甚だ不可解である。本件殺人は、強盗の目的ではなく、その他の理由による単純殺人事件とみるべきである。

一〇、八月一九日夜の実況見分について

請求人が、昭和二五年八月一九日夜、検察官の指示によつて香川重雄方現場に連行された際、請求人は、同席の捜査官らに対し、右香川の胴巻を着物掛にかけたことを指示し、犯行の模様を実演したといわれているが、請求人にそのような言動はなく、また実況見分調書も作成されていないところよりすると、その事実がなかつたから作れなかつたものである。

一一、第四回自白調書について

原第一審判決において主たる証拠となつている昭和二五年八月二一日付検察官中村正成作成の第四回被疑者供述調書(以下第四回自白調書という)は、請求人の任意の供述を録取したものでない。

請求人が、別件強盗傷人事件により、昭和二五年四月初逮捕、勾留され、公判繋属中に、検察官および警察官は、請求人を丸亀拘置支所より、他に在監者のいない三豊地区警察署高瀬警部補派出所の留置場に移監し、二回にわたる別件逮捕、勾留の後、本件強盗殺人で逮捕、勾留するなど、不法不当に長期間勾留し、その間、取調官において、請求人に暴行、減食、脅迫等の拷問を加えて自白を強要した結果、当時一九才の請求人は、その苦しみに耐えられず、あきらめていわれるままに虚偽の自白をするにいたつたものであり、また右第四回自白調書は、検察官において、右のような心理状態にある請求人の心情を確認もせず、自白を既定のものとして勝手に作成したものであり、虚偽の公文書である。

一二、アリバイの成立

本件発生の当夜、請求人は自宅八畳の間で弟孝と共に就寝して外出はせず、その隣室には来客中林ハマがいて、これを確認しているものである。

一三、公判不提出記録の紛失について

高松地方検察庁丸亀支部において、当然保管されていなければならない筈の本件強盗殺人事件の公判不提出記録が、昭和三四年六月一日以前において紛失しているというのは、同支部職員の単なる事務上の過誤による廃棄とは認められず、真相を究明されたい。

第三、当裁判所の判断―その一

一、本件捜査の経過

昭和二五年二月二八日午後五時頃、被害者香川重雄が殺害せられたことが判明するや、所轄三豊地区警察署(署長藤野寅市)においては、直に署員を動員し県本部の協力を得て、捜査に着手し、現場近くの善教寺に捜査本部をおき、翌三月一日、岡山大学上野博に死体の鑑定を求めるとともに同日(自午前八時三〇分至午後五時三〇分)被疑者不詳の強盗殺人事件として現場検証を実施し(原記録三冊まで―以下単に原とする―六九丁)ている。

(1)  右検証の調書(警部補三谷清美作成)によると

(一) 香川方炊事場入口の板戸(半間)の錠は、いわゆる「ゴツトリ」になつており、外部より短刀様のもので「ゴツトリ」の付近を三ケ所突いた痕があり、内部に貫通したものがある(原七二丁)。

(二) 奥四畳の間で、被害者は就寝中のところを矢庭に鋭利な短刀様のものにて傷つけられたものと認められ、下布団南側には背中にあたる付近まで血痕が多量に付着し、枕にも右側上部に血痕があり、就寝中の頭部にあたる襖及び左側襖にも飛沫状血痕が付着している。上布団はけり起きた格好になつており、二枚の内下側人絹布団並に国防色毛布には多量の血痕が付着している。更に枕許のどうまる籠にも血痕が付着し、板の間にいたる出口付近の敷紙及び襖には多量の血痕が付着している(原七七丁)。

(三) 同場所より西側に向い連続して敷紙上に一面に擦過状の血痕が付着し、次は北側障子戸に被害者がすがりついて歩いたものか、横這いに血痕が付着し、西側障子は少し開けて、木戸並に柱に触れたような血痕が認められる(原七七丁)。

(四) 被害者は、この場所に南西に頭部を向け、仰向けに倒れており、右(左?)足は前記柱に踵をつけ、畳の縁に副い真直ぐに延ばし、左(右?)足は角度四五度位に開いて、同じく、真直ぐ延ばしており、右手は曲げて虚空を掴み顎のところに、左手は同じく曲げて肘を畳につけ、拳は上方にして虚空を掴んでいる。その両手とも創傷を負い鮮血にまみれている。頭部顔面には、二月二一日付の朝日新聞を押し当ててあるが、創切刺傷は頭頂部、口部、右耳部などに多数認められ、その出血、稍左に顔を振つておるため、左肩左胸部下方の畳上に多量流出し、約二尺平方は血の海となつている。

被害者の着衣は、上体に袷立縞寝巻、白ネル襦袢、紺色チヨツキ、鼠色毛糸アンダーシヤツ、白メリヤスシヤツを着し、下方はメリヤスパンツをつけておるのみである。右足先には、血痕付着の白ネル腰巻様のものを丸めて置いてあつた。尚下ズボンは、寝床南横の襖のところに吊りかけてあつた。(原七七丁うら)

(五) 被疑者の足跡と推測されるものが、別添見取図其の四(原八三丁)に示すように、被害者の左胸部横に右足先端を西向きに血糊の中に踏み込んだのと、同様足跡にて東向き(裏口に向つて)被害者の両足の中間に一個、次は四尺二寸五分前方に一個、更に三尺四寸前方に(なお其の四の見取図によると、更に三尺四寸五分前方板の間に一個ある)何れも血液付着の靴の足跡が遺留されていた(原七八丁)。

(六) 屋内物色の模様は、枕許付近において、いく分取り混ぜた形跡は認められるも、被害者が常時携帯するという胴巻は、被害当日の昼間近所の東條新一方に新築の手伝に行き、土埃の付着したズボンを吊つた内側に共に吊つてあつた。

内容品は、鹿皮二つ折財布一個あり、在中金(十円札五枚、一円札十七枚、五円札四枚、五十銭札三枚、十銭札四枚、五銭札一枚、五十銭貨一枚)計九十九円四十五銭(八十九円四十五銭の誤記)と認印一個、衣料切符、保険預り証等が入つていた。

その他西側の箪笥についても、各抽斗とも、物色の形跡は認められない(原七八丁うら)

との記載がある。

(2)  しかして、初動捜査の重点は、被害者が闇米ブローカーで金をためているとの風評もあり、聞き込みにより、被害者方に出入りしていた高知県方面の闇米ブローカー、闘鶏関係者等を割り出すことに向けられていたが、捜査は難航し、一ケ月を経過するも、犯人検挙にいたらなかつた。

(3)  ところが、昭和二五年四月一日、午前零時三〇分頃、神田村農業協同組合において、強盗傷人事件が発生し(再四五三丁)、請求人および石井方明が共犯として検挙せられ、犯人であることを自白し、公判審理を受けるにおよび、侵入方法の類似(原二七九丁、再四七九丁、九一六丁)等より、内偵の結果、請求人が、本件強盗殺人事件の容疑者として浮んで取調べられるようになり、次の如き経過により、身柄を拘束の上、高瀬警部補派出所長宮脇豊、国警県本部派遣の田中晟警部、同広田弘巡査部長、高松地検丸亀支部長中村正成検事らの取調を受け、(再二六一丁、七八一丁)請求人において、昭和二四年七、八月頃安藤良一と共謀して、香川方に接して生えていたみかんの木(原八六二丁うら参照)から登つて二階から侵入し、階下の部屋で、現金一万円位等を盗み、炊事場から出たことがある(原二五九丁)と自供した(原二八〇丁うら、再八九一丁)後に本件犯行を自白するにいたつている。

25.4.3 頃 強盗傷人で逮捕―再三二一丁―

4.6 同右勾留(三豊地区警察署)

4.10 丸亀拘置支所へ移監(高松地検観音寺支部より同丸亀支部に身柄付で事件移送)

4.11 三豊地区警察署へ移監

4.14 丸亀拘置支所へ移監

4.19 強盗傷人事件起訴

4.20 三豊地区警察署へ移監

(この間強殺事件の取調をするも調書なし(再三九三丁))

6.7 丸亀拘置支所へ移監

6.15 強盗傷人事件有罪判決(懲役三年六月)

6.21 高瀬警部補派出所へ移監、本件強殺事件を取調

6.24 宮脇豊の請求人に対する参考人調書(環境、交遊、匕首)

6.26 同右(容疑の原因、否認)

6.29 別件窃盗事件で逮捕(原二八三丁)

6.30 強盗傷人事件判決確定

7.2 右窃盗事件で勾留

7.11 右勾留につき釈放と同時に、別件暴行、恐喝事件で逮捕(原二八三丁)

7.13 右事件で勾留

7.20 宮脇豊の請求人に対する参考人調書

(弟に犯行打明、犯行は否認)

同日頃、田中、広田本部より派遣

7.26 第一回被疑者調書(田中晟に犯行自白、宮脇豊調書作成)

7.27 第二回同右(宮脇調書)

同日 第三回同右(同右)

7.28 第四回同右(田中晟に犯行否認)

7.29 第五回同右(宮脇豊に自白一部訂正)

8.1 暴行、恐喝事件勾留につき釈放と同時に本件強盗殺人事件で逮捕

弁解録取書(宮脇豊に犯行自白)

8.2 第六回被疑者調書(宮脇豊に自白一部訂正、経歴、動機)

第一回手記

8.4 本件強盗殺人事件で勾留

弁解録取書(中村検事に自白)

第一回検察官調書(自白)

8.5 第七、八回被疑者調書(宮脇豊に自白)

8.11 第二回検察官調書(自白)

8.14 第三回同 右

8.17 第二、三回手記

8.19 第四回手記

8.21 第四回検察官調書(自白)

8.23 本件強盗殺人事件起訴

8.24 第五回手記

8.25 第五回検察官調書(自白)

8.29 丸亀拘置支所へ移監

(4)  本件の如き自白が中心となつている事件については、自白が得られるにいたつた捜査の端緒とその経過に関する検討が必要であると考えられるのに、記録紛失により、請求人に関する公判不提出の捜査報告書等は参照できなかつたが、少なくとも請求人が、近時その違法性について議論のある別件逮捕、勾留(二度にわたる)による、相当長期にわたる拘禁中に自白をしていることは明らかであり、警察は、見込みをつけた被告人からまず自白を得ることに全力をそそいたものと認められるが、新刑訴法施行後間もない昭和二五年代の警察捜査段階において、暴行、陵虐等というような拷問は論外としても強制、誘導が絶無であつたと断定できる客観的資料はない。当裁判所としては、別件逮捕の違法性を含め、捜査の経過、自白追及の過程が、客観的に公正なものであつたかどうかは一応疑問があるものとして、検察官においても立証をつくすべきであつたものと考える。

二、原審公判審理の経過と結果の概要

(1)  捜査段階における自白にも拘らず、請求人は起訴後は、昭和二五年一一月六日の第一回公判において、公訴事実を全面的に否認し、(原二九丁)、警察、検察庁における自白調書の任意性、真実性を争つたため、取調の警察官宮脇豊(原第一審の第三、四回公判)、田中晟(同第四回公判)、広田弘、菅薫(同第六回公判)、立会検察事務官津田博、同高口義輝(同第七回公判)が尋問なされると共に請求人の犯行当時のアリバイ立証のため、弁護人申請の請求人の実父菊太郎、実母ユカ(同第七回公判)、中林ハマ(自宅尋問―原六七三丁)、中林アヤノ(同第九回公判)、検察官申請の弟孝(第二回公判)、浦野正明(第六回公判原四九〇丁、実母ユカを取調べたが、アリバイについての弁明はなかつたという)、滝下ナツ、大西千代治、都築五郎(同第八回公判)、図子収吾、滝下慶治(同第九回公判)が尋問され、裁判所は職権をもつて現場検証(原八五六丁)をした。

(2)  更に、原第二審においては、アリバイ立証のため、弁護人申請の谷口菊太郎、谷口ユカ、谷口孝、中林アヤノ(原第二審第四回公判)、中林ハマ(財田村谷口方現地で)を再尋問し、現場検証(28.12.16.)を実施した外、検察官申請の宮脇豊を再尋問した。

(3)  しかして、原第一、二審の結果によると、請求人のアリバイの主張は遂に認められず、中林ハマの証言は不在を証明するに足らず、請求人が当夜在宅して外出をしなかつた旨の証人谷口菊太郎、同ユカ、同孝の各供述も信用できないというのであり、請求人の自白についても、警察職員の不法不当な取調によるものとは認められず、中村検事に対する第四回自白調書も、任意性に欠けるところはなく、更に請求人の自白する兇器の用法は、被害者の創傷に符合するものであり、請求人着用の証二〇号国防色ズボンの右脚部表に附着せる飛沫血痕様のO型人血は被害者のものと認められ、また請求人の侵入口についての自白が、現場の「ゴツトリ」付近の状況と符合していることは、被告人の犯行と認めるに足る最も有力な資料であり、第四回自白調書は真実性に疑がない。ただ轟橋上より投棄したという兇器の刺身包丁が発見できないのは問題ではあるが、流失または埋没し去つたということは十分考え得られるので、兇器が未発見であるからといつて自白の真実性に影響はないとされている。

なお、上告審は、控訴審判決の説示を是認し、上告は、刑訴法四〇五条にあたらないとしている。

三、第一回再審請求の結果について

請求人が申立てた第一回再審請求理由は、

(1)  請求人は事件当時、黒色で裏に三角の鋲を打つた短靴を常用しており、そして該犯行現場には犯人の足跡が残されており、その両方とも検察側に押収されていて両者は一致しているというのに、そのいずれも証拠として法廷に提出されていない。これは右両者が一致していないことを示すものである。

(2)  証拠物となつている血液の付着したズボンについて、当時請求人の使用していたズボンは、国防色の日本軍人用のものであり、しかして請求人の弟も同じく国防色のズボンを使用しており、そしてそれを請求人において、友人の香川に貸与したことがあるので、その際そのズボンに同人の血液が付着し、それが証拠物となつているズボンであるかも知れない。また請求人の兄は元警察官で、制服の国防色ズボンを着用していたが、昭和二四年五月七日岩川光照なる鉄道自殺者の調査立会とその処理に当つたところ、その際その着用の国防色ズボンに自殺者の血液が付着した事実があり、しかしてそのズボンは請求人に対する強盗殺人被告事件につき押収され、ために同人は退職の際その返納ができず始末書を提出したことがあるので、これが右証拠物となつているズボンであるのかもしれない。しかも被害者の血液型はONQ型であるのに、証拠のズボンに付着している血液はO型であることが判明しているだけで、MN式及びQ式による検出結果は出ていないのであり、従つて右ズボンの血液をもつて被害者のそれだと断定することはできない。

(3)  犯行現場に落ちていた海軍用バンドとマフラーは犯人のものと思われるが、これは請求人のものではない。よつてその所有者と、それを法廷に証拠として提出されなかつた理由を明らかにすべきである。

(4)  請求人は日本刀を所持しておつたが、これを昭和二四年一一月頃石井方明を通じて浜田耕造に譲渡したことがあり、そして、その後同人は、請求人が被害者方に侵入して現金一万円を盗つた旨の話をした際、もう一度行つてみようと言つたこともあり、それから暫くして本件強盗殺人事件が発生したところからすると、或は真犯人は同人等であるかも知れない。

(5)  被害現場に残されていたリユツクサツクについて、その所有者の調査が果されていない。被害者は高知県、徳島県等各方面の米ブローカーを相手にして生計を樹てゝいたもので、反感を抱いていた向もあつたようであるから、右リユツクサツクの所有者を確かめていないのは捜査不充分である。

(6)  請求人が犯行に使用したという刺身包丁の出所についての検察側の証拠は充分でなく納得できないから、その入手経路を完全に調査すべきである。

(7)  請求人は、別件強盗傷人事件で逮捕連行される途中、警察自動車の中から現金八、〇〇〇円を捨てた旨の証言があるも、被疑者を逮捕する際には必らず所持品を検査する筈であり、請求人も検査をうけたのであるから、もし請求人において現金を所持しておればその時発見されている筈であり、しかも右逮捕連行の際は、請求人は両手錠を入れられたうえ、両側から警察官が看視していたのであるからそのようなことは不可能であり、右は検察当局において被害金額を一致さすべく虚構の証言をしているのであり、被害金額についても起訴状には一万八、〇〇〇円余とあるも槇野忠助の言によれば被害者は殺された二、三日前妻に現金を預けたという新事実があるので、被害者は当時検察当局の主張するような現金は持つていなかつた筈である。

(8)  昭和二六年七月七日、請求人が丸亀拘置所に在所中、隣房にいた小林某から、当時米ブローカーをしていた山路某が親類の本田静雄のグループを手引きして本件被害者を殺害させたものであり、当時同人等は他にも鈴木五郎宅に侵入して衣類等を窃取したということを聞いている。

(9)  昭和二八年五月高松刑務所に在所中、同所にいた高木某の言によると、請求人に係る強盗殺人事件が発生した際、香川県仲多度郡十郷村佐文白川富雄が飴商売をしていた男と九州方面へ逃げていた事実がある。

というのであつたが、第一回再審請求事件裁判所は、右各事実は、いずれも再審事由に該当しないとして、昭和三三年三月二〇日、その請求を棄却したのに対し、請求人は即時抗告もせず、確定している。

四、当審における審理の概況

本件強盗殺人事件は、事件発生以来既に二二年余を経過し、未だ戦後の混乱期にあつた昭和二五年当時と現在とでは世情は正に一変しており、原記録を精査しながら、当時における公判審理の状況は現在と違うところが多かつたのではないかと考える次第である。

請求人においても、当時一九才の青年が、今や四二才不惑の年令を過ぎている。しかも死刑判決確定以来、一五年余囹圄に身を拘束されている。かかる境遇下の請求人より本件再審請求がなされ、弁護人もつくことなく、審理が始まつたものであるところより、既に前記のような第一回再審請求が棄却された事情はあるけれども、事実の取調をつくして更に真相を究明してみるべく、万全の努力を傾注した次第である。その審理の概要を摘記すれば、次のとおりであり、その間、当審の担当検察官より終始積極的協力が得られたことを特記しておく。

44.4.9 本件再審請求受理(合議体矢野、菅、44.5.1から吉田)

5.10 確定記録送付

6.20 証人谷口勉尋問

7.29 請求人谷口繁義、証人石井方明尋問

8.23  証一八号ないし二六号の物件押収

8.30 証人谷口勉再尋問

9.27 証人谷口武夫、同谷口孝尋問

11.l 証人藤堂輝雄、同浦野正明、同宮脇豊、同田中晟尋問

11.29 証人中村正成尋問

12.8 証二〇号国防色ズボンの押収、領置、公判提出経過についての検察官意見書提出

45.1.22 証二〇号国防色ズボン、岩川光照の鉄道自殺とその血液型についての検察官の事実調査回答

2.27 証人岩川秋男、同岩川キクノ尋問

3.2 岩川秋男、同キクノの血液型鑑定書受理

3.25 請求人谷口繁義の拘禁状況についての検察官釈明書受理

4.9 証人岡本長一尋問

4.17 証人高口義輝尋問

5.14 請求人谷口繁義再尋問

5.20 請求人より再審請求書(追加)受理

同日 高瀬警部補派出所に他の留置人不在、強盗傷人事件につき請求人が逮捕された日時についての検察官事実調査回答受理

5.22 証拠品の処理、公判不提出記録の紛失、別件逮捕、勾留等に関する検察官釈明書受理

6.20 検察官第一回意見書提出

8.16 裁判長交替(越智)

10.13 石井方明、谷口繁義にかかる強盗傷人事件確定判決謄本取寄(記録は廃棄ずみ)

10.19 石井方明、谷口繁義にかかる強盗未遂事件確定判決謄本取寄(記録は廃棄ずみ)

10.26 強盗傷人事件の被害者近藤肇の血液(O型)が証二〇号国防色ズボンに付着することはなかつた旨の検察官事実調査回答受理

11.6 観音寺警察署保管の記録三冊提出

11.18 現場検証、証人宮脇豊尋問

46.4.20 菅浩行裁判官高松家裁本庁に転出したが、引続き担当

5.13 古畑種基、池本卯典の血痕鑑定書提出

8.7 高村巌の筆跡鑑定書提出

8.14 血痕足跡と黒短靴に関する検察官の事実調査結果回答

11.11 手記五通に押捺されている指印が請求人の指印と符合する旨の検察官事実調査回答

11.17 証人広田弘、同田中晟、同石川正良、同山本譲三尋問

11.25 請求人尋問

12.8 証人宮脇豊尋問

12.16 当時四国新聞記事調査

47.1.10 検察官より壺井正作成の筆跡検討結果を提出

1.24 請求人より国に対する損害賠償請求事件(当庁昭和四七年(ワ)第四号)訴状および新聞記事取調

1.29 証人藤野寅市尋問

2.9 請求人意見書提出

2.21 田万広文弁護人選任届提出

4.1 吉田昭裁判官岐阜地裁本庁に転出したが、職務代行を発令引続き担当

8.10 検察官より古い血液の男女識別についての上申書提出

同日 検察官第二回意見書提出

8.26 弁護人意見書提出

第四、当裁判所の判断―その二

本件は重大事件であるとともに難事件であり、事実の認定が本件の中心である。旧一・二審で死刑、無期懲役という最高の刑が言渡された事件が、最高裁で事実誤認の疑いがあるとして破棄せられ、審理をやり直した結果無罪となり、その判決が確定した事例もないではなく、そのような事例は、新刑訴法施行直後のいわゆる自白中心の事件にその例が少なくない。自白中心の事件につき適正な裁判のため、「裁判官の自由な判断」をいかに発動すべきか、正に難事中の難事といわざるを得ない。

原第一審検察官は、全文八一丁に上る論告書を提出し、請求人の自白にいたる心理経過をその性格、行状、前歴、留置場内における言動等をも併せ勘案し、全人格的に詳細に分析し、「証拠がないから自白をしないということは、被告人(請求人)が本件で検挙されて以来、終始とつてきた不動の態度であり、このことは被告人が自白に当つても全面的にこれをなさず、捜査官の持駒に応じてやむなく一部ずつなしてきた(いわゆる段階的自白というもの)事実に対応するものである」(原記録第四冊論告一八丁うら)と述べているが、正に本件で、請求人が述べたことで、真実性に疑問がないのは、捜査官側に判明していた事実あるいは常識的に推察できる事項に関するもののみで、その他の自白は果して事実であるのかどうか確認できてないというも過言ではない。結果的に自白を裏づける補強証拠があるといつても、直接の証拠(指紋の符合、賍品の所持、目撃者の供述等)はなく、本件においては、捜査段階での被疑者の供述が、どのようにして動かざる事実に合致したかが問題であり、その経過を裁判所に認識させるのが、公判維持のため公訴官に科せられた最大の責務であつたと考えてよいのではなかろうか。いかに裁判所に対し深い推理力と鋭い洞察力を要求(論告一一丁)されても信憑性ある適法な補強証拠の提示なくして、自白の信用性の究明と真相把握はできない。本件においていわゆる犯行と直接に結びつく証拠は、警察における七回に及ぶ自白調書と五通の手記、検察庁における五回の自白調書が、(論告一四丁)その根幹をなすものであり、自白調書の数は約二三〇丁、手記は二〇枚というぼう大なものであるが、これが真実性の裏づけとなる物的証拠等は甚だ少ないといわざるを得ない。法廷において、証言を求められたすべての捜査官が、強制、誘導等はない、被告人の自白については、真犯人でなければ知り得ない事実につき任意の供述があつたと強調しつづけても、裁判所は何を根拠にその証言の真実性を判断し、事案の真相をどのようにして認定すればよいのか、取調官はいかなる場合でも、決して嘘をいわないという経験則が確立できるのなら、問題はないが、残念ながら、取調官の証言を全面的には信用できないとした先例も少なくはないのである。

一般に、被疑者、被告人の自白が真実に合していることが多い。しかしなかには、罪責を免れようとして、虚偽の弁解をする場合があり、記憶違いや思い違いをする筈のないことについても供述を変更することもあり、一部については真実を一部については虚偽を述べる場合もある。また、一見いかに真実らしく詳細、具体的に述べられ、一見疑う余地がないように見える自白でも、強制、誘導、迎合等による場合は、架空のものであつたり、また真実に合致する如く変更させられたりしたものさえある。自白の真偽は、予断を排し、よほど細心の注意と鋭い洞察力をもつて判断を加えなければ発見できない。一旦自白した後においても、罪を免れたい心理から虚偽の供述をすることがあるとの犯人心理は否定はできないが、粗雑に適用すべきではない。

また、捜査官においても自らの捜査結果を公判で維持するため、ベテランといわれる捜査官においてすら、捜査上の手落ち、欠陥を糊塗せんがため、しばしば事実を述べず、巧妙な言辞を弄し、裁判所の真相把握に困難を与えることがあり、誤判はこのようなことにも起因するとさえいわれている。要は、自白中心の事件においては、自白の任意性、真実性の綿密かつ客観的な確め方が問題である。

なお、原第一審検察官は、請求人の留置場等において洩らした感想、独語、質問、対話、挙動等片言隻語を重要な証拠(論告一七丁うら以下)としているけれども、言葉の伝達は、甚だ不確実なこともあり、話を聞いた者が果して正確にキヤツチしたかどうか問題もあるので、過信は禁物であり、寸言の中から真相が見抜ける場合は、特別の状況下における稀有のことと銘感すべきではなかろうか。

更に、本件における自白の変遷や不自然さをどう考えるか。前述の如く一旦悔悟の涙を流して、犯人であることを自白した後においても、なお責任を逃れたい、刑責をできるだけ軽くしたい念にかられて心が動揺し、すべてを自供せず、矛盾した供述、虚偽の供述を重ねて行くことが往々にしてあることは、犯人心理として首肯できるのではあるが、捜査官において誘導、強制しえない事項に関する自白の不自然さ、あいまいさは、きびしく批判、検討する必要があるのではなかろうか。

本件における捜査官の証言に虚偽があるとの予断を懐くものでないが、裁判所に科せられている自白の任意性、真実性究明義務をつくすためには、正に眼光紙背に徹する深い推理力と鋭い洞察力を発揮すべきではなかろうか。この意味において、当裁判所は、三年余を費やし、できるだけ広く事実の取調を実施し、推理、洞察に最善の努力を傾倒した積りではあるが、捜査官の証言も全面的には信用できず、二〇年以上も経過した今日においては、既に珠玉の証拠は失われ、死亡者もあり、生存者といえども記憶はうすらぎ、事実の再現は甚だ困難にして、むなしく歴史を探究するに似た無力感から財田川よ、心あれば事実を教えて欲しいと頼みたいような衝動をさえ覚えるのである。

さわあれ、各論的判断は、後に詳述するとして、本件再審請求に対し、証拠物を含む原記録をはじめ、現存する関係書類を精査し、当審における三回におよぶ請求人尋問を含むすべての事実取調の結果をも併せ勘案し、慎重審議を重ねた結論は、綜合的判断として、本件の確定判決をくつがえして、再審を開始すべき事由の存在は遂に認められないということである。しかし、個々の点につき解明できない疑問点も多々あるので、敢えてこれらの点を指摘する次第であり、今後上級審において更に審査をされる機会があれば、批判的解明を願いたく思料している次第である。

一、石井方明が真犯人であるとの主張について、

石井方明は(原四三〇丁以下、九四二丁)、財田村生れの旧友であり、請求人と共に、昭和二四年一月、中矢キクヱに対する強盗未遂(再四六一丁)、本件の直後の神田農協の強盗傷人(再四五三丁)の各犯行を敢行している不良仲間(その後石井は、昭和三二年一二月一七日箕面市で強盗殺人を犯し無期懲役に処せられている―再七一丁)であり、本件強殺事件についても、捜査線上に浮んだ(原二七八丁)ものではあるが、請求人の主張するところによると、右石井が度々請求人に対し「谷口すまんことをしたといつた」といつた(再六〇丁、六二丁)というに過ぎず(石井においては、これを否認する―再八〇丁うら)、捜査官においても、石井は、本件強殺事件当時情婦香川美代子と共に西宮市のアメリカ博に遊びに行つていた(再七八丁うら)と認められていたものと解せられる外、石井を本件強殺事件の真犯人と認める証拠はない。

二、手記五通の偽造について、

(1)  原審に提出されている請求人作成名義の手記は、左の五通である。(原一、〇三九丁以下)

第一回 25.8.2 五枚(軍隊の靴、犯行の状況、弟が目をさました、胸は最後に一回抜かずにまた突いた)

第二回 8.17 六枚(包丁、一万円の窃取、戸を突く、黒い靴、国防色ズボン)

第三回 同日 四枚(自白の動機等)

第四回 8.19 二枚(八千円の投棄、新聞、胴巻をかけた)

第五回 8.24 三枚(動機等)

右各手記は、字体幼稚で、仮名使いの間違等があり、判読するのが困難であるが、添付せられている浄書(田中警部の発案)を一読すると、その内容は意外にまとまつており、請求人において手本を写したのではないかとの疑問がないではないのに、当審においてもはじめ請求人は宮脇さんのいうように書いた(再四一一丁)と述べていたのを、その直後請求人の自筆でないと否認(再四一一丁うら)するにいたつている。

当審の高村巌鑑定書(再五九三丁)によれば、手記五通と谷口繁義の筆跡、署名は、その運筆軌跡に類似性があるが運筆書法と文字形状に相違するところが検出されているので、同一人の筆跡と認めることは困難である(再六〇三丁)、但し、鑑定資料(21)、(24)、(25)、(26)の図面の筆跡は同一人のものと認める(再六〇一丁)と鑑定せられた外、右五通の手記を仔細に精査すると、右手記が二〇日間程の短期間に同一人によつて作成せられたものとしては、用語上の特異性として、

第一回 僕く (一四ケ所)、わ(二八ケ所)

第二回 和くし(二四ケ所)、は(三一ケ所)

第三回 私し (二三ケ所)、は(一三ケ所)

第四回 私し (一〇ケ所)、は(一〇ケ所)

第五回 私し (一六ケ所)、は(一三ケ所)

というような用法があり、弁護人意見書指摘の如く、見方によつては、悪、留置場、三叉路とか用語が統一されてないところが異様にも考えられないことはないが、この故に手記五通が同一筆跡でないとは断定できなく、また右高村鑑定にしても、全般的に筆跡が異なると判定しながらも、請求人が、その署名のすべてを否認(再八六二丁)する資料(21)の七月二九日谷口繁義製図(原一、一八〇丁)四枚(そのうち第二、三枚には、第二回手記と同様の「和くし」なる誤用字がある)、(24)、(25)、(26)の図面三枚(原一、二四〇丁、一二四一丁、一、二四二丁、(26)には「和くし」の誤用字がある)の筆跡は、一応手記と符合する(再六〇四丁)と認められている(なお、高村鑑定人の回答書―再一、〇五九丁参照)。しかも、右資料が手記と同一時期、同一の環境下に書かれたものであることを考慮すると、対照すべき筆跡としては最も適当なものであり、右筆跡の同一ということの意味は重視すべきであること、また右手記五通に押捺されている四三個の指紋全部が、請求人の右手拇指のものと合致(請求人においても認める―再八六七丁、八八四丁)する(再七三七丁)こと、更には当審の証人広田弘、同田中晟、同宮脇豊の供述によると、右手記は自白の任意性を担保する目的(このため下書を見せて自書させることはあり得るとしても)のものであり、これを偽造したのではその目的に副わず、請求人の自筆に間違いはない旨の供述をし(再七八五丁以下、八一五丁以下、九〇一丁以下)、これら各供述を否定すべき特段の事情が認められないこと、および、当審における壺井正の筆跡検討の結果(再九二九丁)によると、手記五通を含め全資料には、故意に他人の筆跡を模倣した偽筆、あるいは、作意的に自己の個癖を隠蔽せんとする作意筆の特徴は全くみあたらない(再九三六丁)とし、手記の署名は、弁護人選任届、保釈願、意見書、供述調書、弁解録取書、略図面、上告申立書の各署名と符合する(再九三六丁)とされていることおよび当裁判所自ら仔細に見分した結果を綜合すると、請求人の手記五通が偽造されたという主張は採用できない。

(2)  しかも、請求人は、右手記五通が原第一審公判に提出されていたことは知らず、昭和四五年五月一四日大阪拘置所において、当審の矢野伊吉裁判長から示されて初めてこれを知つた、手記はすべて署名を含め自筆ではない(再八六〇丁うら)というが、右手記五通は、前記の如く、請求人の自白の任意性を立証する目的のため作成方を慫慂されて、作成されたといわれるものであり、その存在とこれが請求人によつて、拒否することなく作成された経過について、原第一審第四回公判調書に、証人宮脇豊が、検察官より八月二日付、八月一七日付(二通)、八月一九日付、八月二四日付手記五通を示されての問に対し、これは谷口繁義の手記であり、谷口が自分の思つている事は自分で書くから鉛筆と紙をかしてくれというので、貸してやると谷口が留置場で書いた(原二九五丁)と答えた旨記載されている外、原第一審第五回公判調書にも、証人田中晟が、手記五通を示され、概ね同様の供述をした旨の記載(原四四四丁うら)があり、弁護人においても、手記は、強制とか誘導して書かせたものではなかつたか、と問い、手記の内容にもわたつて確かめている旨の記載(原四五九丁)があり、原第一審第六回公判調書に、証人広田弘が、手記五通を示され(原四七九丁)、請求人自身が自由に書いたものに間違いない旨の記載がある外、原第一審第七回公判調書によると、右手記五通について、検察官は、「被告人の上高瀬留置場における手記であつて、それが任意に書かれたものであることは、証人の証言で証明十分である」としてこれを提出し(原七九四丁うら)、同第一〇回公判調書によると、要旨を告げて取調した(原八八〇丁)と記載されている外、原第一審検察官の論告において(原記録第四冊中の論告書一四丁うら以下)、右手記の証拠価値が強調され、その重要点が指摘され(三二丁)、弁護人の原記録第四冊中の弁論趣意書(一一丁)にも手記につき附言されている。

更に、請求人の第一回再審請求事件において、請求人は裁判所に対し、「私が手記を書いていますが、これは宮脇警部補が無理に書かせたもので、私が自由に書いたものではありません」(右記録五九丁)と述べている等の経緯に徴すると、請求人が右手記五通の存在と原第一審に証拠書類として提出されたことを当審にいたるまで知らなかつたものとは到底認められない。

なお、請求人は、手記を書いたと思うが、右五通以外のものであつたと述べたりしているが、その真偽も判明しない。

三、証二〇号国防色ズボンが、すり替えられたものか、犯行時請求人において着用していたものかどうかについて、

(1)  先ず、検察官の冒頭陳述記載の第一回公判調書(原三〇丁)によると、証二〇号は被告人の当時着用の国防色ズボンと記載されている(原三二丁うら)のに拘らず、被告人の着衣ではなく、被害者の着衣なる如く誤まり記載され、被告人の着衣の中より、証二〇号が除外されている誤記載(原三〇丁、表、うら)もあるが、請求人は、右第一回公判において、右証二〇号を示され、「そのズボンは、私の弟孝のものですが、私がはいていたことはなく、又弟がはいて香川方へ行つたようなことはありません」(原三五丁うら)と述べ、爾来同じような供述をしている外、請求人の父菊太郎、母ユカ、実弟孝等は警察が、右国防色ズボンを押収したのは、請求人が神田農協における強盗傷人事件で逮捕された後、請求人宅に赴き実弟孝が着用しているのを脱がせて提出させた(原五四四丁うら、五五三丁、再一二二丁以下)ものであるという。

しかし、当審証人谷口勉(請求人の実兄、元警察官、昭和二五年八月一五日退職)は、証二〇号国防色ズボンを示され、それが警察から支給を受けたかどうかは判然としない(再九六丁以下)と述べてはいるが、このようなズボンは家にあり、僕も弟もはいていた、物資の不足していた時代ですからお互にはいていた(再一〇〇丁)と述べ、官から貸与を受けていた国防色ズボンは、夏服であり、実家においてあつて、当時繁義も、弟の孝も着ていたと思う(再三九丁)、夏服が綾織の国防色と白色とか色々の種類の制服があつて、制服もよく変つておつたので、前の古い服はやつていた(再三八丁うら)と述べている外、請求人が、当審において、証二〇号国防色ズボンを示され、兄が着用していたのは知つている(再八七四丁)、お示しのズボンは、警察官の制服の下ズボンで、当時兄は独身で自分の実家に持つて帰つていた(再五〇丁)と述べ、

当審証人谷口孝が、証二〇号を示され、このズボンは兄勉から貰つた(再一二三丁)とか、勉兄さんが家においてあつたのを私がはいていた、家にいる男全部がはいていた、繁義もはいていた(再一二七丁)と述べていることを綜合すると、請求人の否認(再八七八丁)にも拘らず、証二〇号国防色ズボンは警察官の制服として支給せられたかどうかは判然としない(再二〇〇丁参照)が、請求人においても、これを着用することがあつたものと認定できる。

(2)  更に、昭和二五年八月一日付領置調書(原一、一九二丁)によると、左記物件が、同日、高瀬警部補派出所において、請求人より司法警察員宮脇豊に任意に提出され、

番号四三 白木綿長袖シヤツ 一

四四 ゴム製黒バンド  一

四五 白木綿軍手    一

四六 国防色下服    一

四七 国防色綾織夏服  一

四八 灰色鳥打帽子   一

昭和二五年八月二六日付遠藤中節の鑑定書(原一五一丁)によると、同年八月一日、国警香川県本部鑑識課長より、

一、 靴下(赤、緑、青)

二、 白袴下

三、 白木綿シヤツ

四、 ゴム製黒バンド

五、 国防色下服

につき、血痕附着の検査が依頼されている。

なお、遠藤鑑定書には、検査の結果として、(原一五二丁)右国防色下服の右脚下半で、前面の略中央(木牌を付してその部位を示す)及び略々後面の下端等に、暗褐色乃至黒褐色の小斑点若干を付着し、これらは何れも略々同様な性状を呈し、木牌を付した部分の斑点は「ルミノール」発光反応及び「ウーレン・フート」氏人蛋白沈降反応を陽性に与えるので人血痕である。これらは何れも表面から付着したもので裏面から付いたものでなく、且つ「ルーペ」で検すると、多少光沢のある飛沫血痕の様に見え何れも微少で血痕の量が少く、血液型の検査を行うに充分でないからこれを行わなかつた。

写真第一は本物件の下半の一面を、第二、第三はその一部(人血痕付着部)を夫々撮影したもので、後二者は前者を多少拡大したものである。本物件が私の手許に送致せられた時には、被検汚斑が赤色の稍々太い線で円く囲まれ、その部位を明示せられてあり、かかる汚斑は何れも血液検査(「ルミノール」発光反応)が陰性であるに反し、赤い印のない、更に微細な暗褐色乃至黒褐色の小斑点は陽性の血液反応を呈した(註、血液検査陽性の斑点若干には、「チヨウク」で白印を付しておいた)。しかして本物件が洗濯せられたとしても、血液反応の陽性を呈した斑点の中には、洗濯を免がれたと思われるものがある。即ちその量は極めて少ないが、前記の如く多少光沢ある黒褐色の微細な塊をなして付着している旨記載されている。

しかして、右遠藤鑑定の対象物である国防色下服が、本件証二〇号国防色ズボンと同一であることは、同号証が当審において現存することにより疑の余地はない。

しかも請求人は、日時は明らかでないが、警察における本件強殺事件取調中に、証二〇号国防色ズボンを見せられたことがあり、自分のものではないと否認したと述べている(再四〇九丁)外請求人は、強盗傷人事件につき押収されたズボンは、すそに紐のついている陸軍用国防色一重下服であり、これを強盗傷人事件において着用していたという(再四二〇丁、八七四丁)が、その時着用していた上衣については、進駐軍の綾織のもの(証一八号であると指示した―再八七五丁)であつたと供述し、上、下の服が一対として、品質、形式等を同じくするものでなかつた(再八七九丁)と認めている外、押収品中に、請求人の主張するような紐のついている陸軍用国防色一重下服と明示したものはなく、且つ、請求人が、未だ黒色木綿ズボンと供述していた八月五日(それまでに請求人が国防色といつたことはない)に請求人が自画したという(再八八一丁)ズボンの図には、すそに紐があるような記載はない(再一、二四一丁、九一三丁うら)、又取調官に対し請求人が、すそに紐のついた旧陸軍国防色下服などといつたことはない(再九一三丁裏)ところよりしても、請求人のひも付国防色陸軍用下服(一重)というのは架空のものではなかろうか。

(3)  更に、慎重を期し、現存する証二〇号国防色ズボンが、遠藤鑑定までに、すりかえられた可能性があつたかどうかについて検討するに、先ず、神田農協の強盗傷人事件当時の着衣につき、請求人の当審における供述を要約すると、証二三号白木綿長袖シヤツ、証一九号軍隊用袴下、証二四号靴下、証二二号革バンド(表示上ゴム製黒バンドの誤り)証一八号国防色上衣(進駐軍放出S字入)の外、下衣として陸軍用国防色ひも付下衣を着用していたという(再八七九丁)のであり、更に、当審における請求人の供述によると、証二一号国防色綾織軍服上衣は、自分のものではなく、知らないかの如く述べている(再八七九丁)。しかし、原第一審においては「私のものです」(原三五丁うら、一、一〇七丁参照)と述べている外、25.8.2付宮脇調書(原一、一八八丁)によると、(右調書の作成日付と25.8.1付領置調書と同日付でなければならない―再一八五丁)

「只今戻して貰つた(還付品)

一、軍手一足

二、鳥打帽子一(本件犯行時には着用せず―原一、一八五丁)

三、国防色綾織夏服上衣 一枚

(請求人が当夜着用していたと供述―原一、一四八丁、一、一五〇丁)

四、国防色下服 一枚

は、私が当夜着ていた上服もありますので全部提出しておきます」旨記載があり、領置されている(原一、一九二丁)外、25.8.5付宮脇調書(原一、二〇六丁)によると、「皆に知られぬ様にこつそり起きて、木綿の黒ズボンをはいた上に、警察の制服であつた綾織の服の上に、進駐軍放出のS字入り濃緑色の上服を寒かつたから着て(二枚重ねとした)(原一、一〇七丁、再九一三丁参照)下着は木綿白の長袖シヤツに同袴下を着て、白、黄、赤色のマンダラの靴下と黒靴をはいて、座敷の口から出た」旨の記載がある。

しかして、着用ズボンについての請求人の捜査官に対する供述の変遷は次のとおりである。

25.7.26 宮脇第一回調書 海軍の黒サージズボン(原一、一〇八丁)

7.27 第三回 海軍用ズボン(原一、一三八丁)

7.29 第五回 紺色毛織古ズボン(原一、一五〇丁うら、一、一六八丁うら)

8.4 中村第一回調書 黒いズボン(原一、二五五丁うら)

8.5 宮脇第七回調書 木綿黒ズボン(原一、二三一丁)

同日 第八回 黒木綿ズボン(原一、二四四丁)

8.11 中村第二回調書 国防色中古ズボン(原一、二六七丁)

8.14 第三回 同右(原一、二七八丁うら)

8.21 第四回 同右(原一、二九二丁うら)

8.25 第五回 同右(原一、三二六丁うら)

請求人が犯行時の着用のズボンを国防色中古ズボンと述べたのは、中村検事に対する25.8.11付供述調書が最初である。

しかして右国防色下服の領置、鑑定の経過よりすると、八月一一日頃、中村検事が、既に右国防色下服に血痕が付着していることを知つて請求人を取調べ国防色中古ズボンと供述が変更されたものと推測できないことはないのに、25.8.11付第二回検察官調書(原一、二六七丁)によると、「香川方に行つた際の服装として、前回(第一回)は警察官用国防色綾織の上服と申しましたが、その上に放出物資である進駐軍用の濃緑色で左胸部にSの文字の入つている上服を着ておりました。又ズボンは黒色のものと申しましたが、よく考えてみると、この黒色ズボンは香川事件より一ケ月後である本年四月一日の神田村における強盗傷人事件について、私が三豊地区警察に留置されていた時、父菊太郎が新たに買い求めて持つてきてくれたものであり、香川事件当時はまだ持つていなかつたのであります。香川事件の当時は国防色の中古ズボンをはいて行きました。」更に、25.8.14付中村第三回調書(原一、二七八丁うら)によると、「同じく犯行にはいて行つたズボンについては、私は黒木綿ズボンとか黒サージだつたとか申してきましたが、これはよく思い出せぬためにいい加減な当ずつぽを申したのであります。しかし、その後よく記憶をたどつて見ますと、当時着用のズボンは国防色のものであることが判りましたので、先日申し上げた次第であります。後略」と記載されているのみで、請求人が、任意に供述を変更した経緯につき首肯できる理由は述べられてなく、また当審証人中村正成もその経緯を記憶していない。(再一七七丁)

なお、警察が、当初証二〇号国防色ズボンを領置した経緯につき、検察官は、(再一八三丁以下)請求人に対する強盗傷人事件に関する司法警察員藤堂輝雄作成の昭和二五年四月一二日付第一回供述調書謄(抄)本(原七四七丁)及び同藤堂作成の同日付領置調書謄本(原七四九丁)によると、国防色の上衣、下衣各一点、軍手(白)一双、鳥打帽(ねずみ色)一個が、請求人より任意提出せられた旨記載されており、同月一四日同品名にて、符合八、九、十号として検察庁において受入し(再一八六丁うら)、同年五月一一日、同品名にて、番号一二、一三、一四として裁判所に領置せられ(原七五二丁、七五三丁)ていたのを、同年七月以降において、警察を介し請求人が還付を受け(再一八九丁)、更に、前記25.8.1付領置調書の如く本件強殺事件の証拠物として、請求人より任意提出されたものを、宮脇豊において実物を確認し、国防色上衣を国防色綾織夏服、国防色下衣を国防色下服として領置したものであるというのであるが、なるほど、原記録を精査すると、請求人においては、供述の変更(証一八号か証二一号か、最終的には二枚重ねて着ていたという)はあるけれども、犯行時着用の上衣については、国防色といつていたが、下衣を国防色とはいわず、海軍の下服といつていたのを、八月五日(宮脇八回調書)にいたつて、現に着用している黒木綿下服であると変更したので、(原一、二四四丁)、宮脇豊は直ちに任意提出させ、25.8.5付領置調書(原一、二四九丁)により領置し鑑識に出していることが認められるところよりすると、宮脇豊においては、八月一日請求人より任意提出させ岡山大学に鑑定を依頼した右国防色下服について、犯行時着用のものとは思つていなかつた(原一、一八八丁、上服についてのみ当時着ていた再九一一丁)ものと認められ、宮脇豊ら警察官において、証二〇号国防色ズボン(下服)を鑑定に出すに際し、故意に差しかえた形跡があるとは認定できないし、中村検事においては、八月一日においては、未だ証拠物について直接の取扱をしてなかつたと認められるので同検事において工作をすることもなかつたものと認める外はない。

よつて、証二〇号国防色ズボンはすり替えられたという主張は採用できない。

(4)  昭和二五年第一八四号領置票謄本によると、八月二三日、検察庁において受入れた品名は、符合二十号国防色ズボンとなつており(再一九六丁)、宮脇豊作成の25.8.1付領置調書(原一、一九二丁)における番号四六国防色下服(原一、一九二丁うら)が、証二〇号国防色ズボンという名称に変更されたのにも拘らず、検察庁における記帳処理上、「改訂証番号」が付せられず、備考欄に「高松地方裁判所丸亀支部提出」のゴム判も押されていないのは、事務処理上の手落ちであると認める。

なお、原第一審の証二二号、当審の証二二号はいずれも実物は「ゴム製黒バンド」であるに拘らず、ゴムが硬化し皮と見誤つたためか「革バンド」として領置されており(原三九丁うら、再二六丁、八七丁、九一丁現物参照)、裁判所における証拠品処理についても、現物確認が不十分なことによる過誤もある。

四、国防色ズボンの血痕について、

(1)  右血痕が、昭和二四年五月七日頃、仲多度郡神野村大字真野で鉄道自殺をした岩川光照(当時一七才)なる者(再四〇丁、二一五丁以下)の血液であるかどうかについては、検察官最終意見(再一、〇七二丁)のとおり、右岩川の血液型はO型以外のA型、B型またはAB型のいずれかである(再二二一丁以下、二三五丁、二四一丁、二五一丁)と認められるところより、請求人の主張は理由がないことが明らかである。

なお、前記のとおり証二〇号国防色ズボンを着用したことがあると認められる請求人および兄勉、弟孝の血液型は、いずれもA型である(原四二一丁うら、六六七丁)外、右国防色ズボンは、請求人が石井方明と強盗を共謀のうえ、昭和二五年四月一日、神田農業協同組合に侵入し、請求人において、所携の刺身包丁で、職員近藤肇を一回突き刺し、同人に対し左季肋部に治療約二週間を要する刺創を負わせた際に着用していたとされているものであり、被害者近藤の血液型はO型であるが、検察官最終意見(再一、〇七三丁)のとおり、証二〇号国防色ズボンに付着している血痕は右近藤の血液ではないと解する。

(2)  しかして、本件被害者香川重雄の血液型は「ONQ」型と鑑定されている(原四二二丁)が、証二〇号国防色ズボンに付着している血痕は、遠藤鑑定によれば、前述の如く、右脚下半で前面の略中央及び後面下端等に暗褐色ないし黒褐色の多少光沢のある飛沫状の小斑点で、微量にして血液型を判定するに充分でない程度のものであり、原第一審の古畑鑑定(原四〇〇丁以下)によれば、「右脚前面の中の中央より稍下方及び右脚後面の下方に、白チヨークでマークせられた部分が三ケ所あるが、その部分には、ケシの実大の暗褐色の斑痕三ケ及び半米粒大の暗褐色の斑痕一ケ(前面に二ケ、後面に二ケ)が認められ、これらを集めて検査の結果、漸くO型とのみ判定されて」(原四〇六丁)いる上に、当審における古畑、池本鑑定(再五八〇丁うら)によると、「証二〇号国防色ズボン右裾部の後側で、すでに前の鑑定のため切取つたと思われる部位に隣接したところ二ケ所(再五七三丁)に淡赤褐色の付着斑が認められ、O型血液と判定された」というのである。

以上の如く、証二〇号国防色ズボンより検出された血痕は、飛沫状のものとはいえ、ごく微量であつて、漸くO型とのみ判定されたものであるにすぎないものである外に、請求人が着用し、多量の血液が付着したと自認し(原一、二四一丁)、また犯行現場の状況よりしても、ほとばしる返り血を浴びたであろうと推認できる(原四五七丁)証一八号国防色上衣(進駐軍放出の大きいもので一番外に着用していたと認められる)に、何等血液反応が認められていないということは、請求人が真犯人であるとしても、犯行時果して右ズボン、上衣を着用していたのかどうか、その自認に素朴的な疑問を懐かざるを得ない。(本件には約一ケ月の間があるとはいえ、強盗殺人と、強盗傷人が重なつておるところに、混乱もあり、着衣等物証の押収、領置の手続等に瑕疵があり、前記の如く証二〇号については、すり替の主張までなされているような事情もある上に、右証一八号国防色上衣についても、進駐軍払下の左胸部にSの字のあるものであり、混同されるようなものではないのに、請求人において証二一号国防色綾織軍服上衣と混同するような供述をしていた(原一、一四七丁うら)ことがあり、後記黒色短靴と共に、一時隠匿(山畑の藁ぐろの中に)せられていた(原二九九丁うら、四四八丁、七一〇丁うら)ものと認められるものであるが、その押収経路を明確にする領置調書が提出されていない。)

(3)  この疑問解明について、請求人は第四回自白調書において、帰来橋を渡つて右へ折れ二、三間位行つて、河原へ降り、中程の水ぎわで進駐軍放出物資の上衣、包丁、靴、手等を洗つた(原一、三〇四丁)、自宅へ帰り、川で洗つた上衣を表の竹竿に干した(原一、三〇四丁)、二月二八日の朝は、寝れぬまゝに何時もより少し早く午前六時半頃起き、私一人が先に朝食を済ませ、国防色進駐軍用上衣は丸づけにし、国防色ズボンは脛から下の血痕のついているところをつまみ、いずれも石けんで洗濯しましたが、右の上衣は特に血のついた胸とすそ、右そで等を特別念入りに洗つて竿に干した(原一、二三二丁、一、三〇五丁うら)と述べてはいるが、一方、血痕付着の状況について(原一、二三一丁)、請求人が、「進駐軍放出のS字入り上服には、前では右胸のあたりに点々と二、三ケ所および一番下の方にベツトリと直径二寸位の大きさについておりました。袖は右袖の内側の先の方に点々と血の飛沫が五ケ所位ついていました。黒木綿下服は一番下の裾の付近(右股)に点々と三ケ所位ついておりました。その他服にはついておらず、靴の裏についていたと思います。それは右の片足に沢山ついていると思います。血を踏んでいるからであります。刺身包丁は切れる処全部についておりました。」と述べ、その状況を図示(原一、二四一丁)している。これらが真実であるとすれば、果してこの血痕が、前記のような洗濯で、現存する証一八、二〇号のような状況にまでなくなつてしまつたものと断定してよいのであろうか。

一般には、血液付着直後、よほど注意して洗濯するのでなければ血液型抗原が繊維の間などにごく微量でもしみついて残ることがある(再八五八丁)という科学的経験則が、本件の場合にもあてはまるのではなかろうか。もしそうであるとすれば、少なくとも証一八号の国防色上衣を着用していたという自認は虚偽の疑が生じ、また証二〇号国防色ズボンに極く微量点在しているとされているO型血液の証拠価値にも影響があるのではなかろうか。証二〇号国防色ズボンにごく微量にしか付着していないO型血液が、犯行と被告人を結びつける決定的証拠であるとするにつき疑問はないのであろうか。

五、国防色ズボンの血液の性別鑑定について、

昭和三五年一一月二四日付朝日新聞記事によれば、鹿児島大学法医学教室において、犯罪現場の古い血液からその血液保有者の性別を鑑識することに成功した旨の報道がなされている(再一、〇六五丁)が、右ズボンに残留している血痕量は余りにも微量であつて、性別判定は不可能であるとの古畑、池本鑑定の意見(再五七八丁うら)により、特に性別判定の鑑定は委嘱しなかつた。

六、犯行現場に遺留された血痕足跡と黒皮短靴について、

(1)  三谷清美作成の検証調書によると、前記の如く、畳の目にそつて血痕の付着した靴の足跡と認められるものが五個(原七八丁、八三丁)遺留され(但し、踵の部分がない―原一一二丁、一一四丁、一一八丁、一一九丁、一二〇丁、一二一丁)ているが、捜査官においても右足跡は動かし難い重要な物的証拠であると考え鋭意捜査をしたが(再六八二丁、六八四丁の二うら)、これと確実に符合する靴の割出ができなかつたという。

しかし、検察官に対する第二回被疑者供述調書(原一、二六四丁)十項によると、(原一、二六七丁)、請求人は、「神田の強盗傷人事件当時には、黒の短靴(先の丸い型―原一、一〇八丁)で片方の上革がいたんでいたため糸で繕うて修理したものをはいて行つたのですが、香川事件に際しても、この靴ははいて行つたことは間違いありません。なお、右の靴は神田の事件の当日、兄勉が持つて帰つたことは前回(原一、二六二丁うら参照)も申し述べたとおりであります」、更に第三回被疑者供述調書(原一、二七一丁)九項によると、(原一、二七八丁)、「私が犯行当時にはいて行つた靴は、黒の短靴でありまして、これはその後一ケ月程はいておりましたが、四月一日私が神田村で強盗傷人事件を働いた朝、兄勉が持つて帰りその後は誰もはいていない筈であります。右の靴は裏金もその儘で別に修理はしておりません」と供述しておる。

しかして、右黒皮靴は請求人の自供により兄勉等を取調べ(原四四七丁)請求人の実父菊太郎、実兄武夫らが、自宅から七丁位離れた畑の堆肥の下に埋めて隠匿していた(再一一四丁、原四四七丁、四八一丁、五四三丁うら、七〇五丁)のが、警察によつて発見されて(再六八九丁)(右黒皮短靴は、神田農協における強盗傷人事件の際、請求人が着用していたと自白(原七四七丁)しているのに拘らず、押収ができないままに、右事件の第一回公判(25.5.11)に提出されていない(原七五三丁)ところよりすると、右黒皮短靴は本件強盗殺人事件の物証として必要ありと考えた検察官の指示により警察において、その所在を追求したものであつて、これが発見されたのは八月五日前後と思料される)現場の血痕足跡と大きさ、形状において、ほぼ符合したといわれ(再五二九丁うら、九一五丁うら)、実験の結果より、革底靴でも現場に遺留された如き血痕足跡が残るものであり(再六九〇丁うら、六九五丁、七〇六丁以下、なお「白の布と裏は革の靴」―原九六八丁うら―によつても血痕足跡は残るのではなかろうか)、右黒短靴(一〇文七分位か)の存在は、請求人の自白を裏づけ、現場の特異な血痕足跡と矛盾しないものと捜査官は考えたものと推認される。にもかかわらず、原第二審証人宮脇豊の供述する如く(原四冊三一一丁)若干寸法が違つていたのであれば、その結果を請求人に示し、着用した靴が違うのではないかと追及して、自白訂正をさせるべきではなかつたか。そして検察官において血痕足跡に前記短靴が符合しないことが明らかであつたのなら、このことは、公判廷で明白にすべきであり、この点につき何ら虚、実の釈明をもせず黙否をしていたものであるとすると、原第一審検察官の態度は甚だ不公正であるといわざるを得ない。

(2)  また、かりに右黒革短靴は、血痕鑑定(八月一一日、岡山大遠藤教授に依頼)の結果、血液の検出ができなかつた(原一四九丁うら、再六九二丁)ためのみを理由に、警察において押収しながらも(再三三二丁うら三八、靴一足)、原第一審の公判に提出しなかつたというのであれば、血痕足跡が不動の証拠であるだけに、検察官に立証上不備があると認めざるを得ない。

即ち、右黒短靴は、たとえ血痕の検出ができなく、長期間土中に埋もれ変形していたとしても、証拠価値がないわけではなく、血痕足跡の長さ約一四糎、幅約一〇糎(前半部のみ)、長さと幅の率約〇・七という測定値から比較的不格好な爪先が太く鈍形の底裏無模様の靴と鑑定された(再六九五丁)といわれているところよりすると、現物対照をすれば、符合の有無(靴の底に鋲があり踵はゴムであつたともいう―原二四三丁、一、〇二四丁)が明らかとなり、本件の真相究明に大いに役立つたのではなかろうか。

右黒皮短靴は、本件犯行時に着用していたものとの請求人の自白があり、捜査官においては、その自認をそのままにしておいて、特に右自認を疑問とした形跡も明白でないのに拘らず、鑑定の結果血痕付着の認められないことが明らかな上衣二着(証一八、二一号、原第一審の証拠に引用されている)については、請求人の自白を裏付ける趣旨で物証として敢て提出しているのに対し、この黒皮短靴のみを提出しなかつたことはまことに不可解である。この点について原第一審検察官は、論告(一〇丁うら)において、靴は未発見とのみ主張するのは、どうしたわけであろうか甚だ疑問とするところである。

しかし、黒皮短靴はすでになく、当審証人の証言も甚だ不明確で、今更疑問を解明しようもない。

(なお、庁外保管領置票写10の靴一足は、現品の提出があり、領置票に移記する(再三四九丁)際、記載洩れ(再三五六丁、三六九丁)となつているのに、昭和三三年一二月二日付谷口菊太郎作成名義の還付請書によると、黒色短靴一足還付の記載がある―再三七〇丁―ことを特に指摘しておく。)

七、兇器の刺身包丁について、

本件においては、兇器とせられている刺身包丁は遂に発見せられていない。本件犯行の帰途、「草庵の轟橋で右手の取付きから西方へ向かい、財田川の三、四十米位の水中へ包丁を投げ捨てた。包丁を捨てたのは持つておるのを人に見つかるとあやしまれると考えたからである」(原一、三〇四丁)との自白が、真実であれば、兇器の発見ができないことはなく、右自白にもとづいて刺身包丁が発見できておれば、自白の真実性は裏付けられ事案の真相が明らかになつた筈である。

しかるに、相当大がかりな捜索(原六八丁写真一、三三七丁)にも拘らず、放棄(二月二八日)と捜索(八月三日)には時間的経過、場所的相違もあつたためか、包丁は、発見できず、流失したか埋没したか、または投棄しなかつたかいずれとも断定できないままに終つている。

請求人は、当初右包丁は、近くの井戸(原四冊二五八丁)に捨てたといい、捜索するも発見できなかつた(原二八七丁、八六〇丁、再八九八丁)こともある。

原第二審判決は、包丁は流失または埋没し去つたとも考えられるとして、包丁が発見できなかつたからといつて自白に真実性がないとは認められないという判断をしている。このことに関する限り自由心証の分れるところであり、敢て異論は述べない。財田川のみぞ知るである。

しかし、請求人の自白によると、右包丁は、昭和二〇年七、八月頃、請求人が財田村青年学校から盗み出し、自宅の風呂場焚口の上の養蚕用の木を積んであつた下に(五年近くも)隠してあつた刃渡り約七、八寸の刺身包丁(原一、一七四丁うら、一、二九〇丁うら)であるというのであるが、果して右包丁が右青年学校で盗まれた(請求人も公判廷で否認―原七一七丁)ものであるかどうかの裏付けは必ずしも明らかでなく(原二五六丁、七二九丁、七三五丁、七四〇丁―紛失したといわれている刺身包丁は刃渡一尺二寸位、巾一寸二、三分という)、五年近くも隠匿し(一回も使つていないともいう―原一、二三七丁)ていたというのは疑わしく、また請求人が図示したという刺身包丁(原一、一七九丁の四図)は先がとがり過ぎているのではなかろうか。

八、いわゆる「二度突き」について、

(1)  真犯人でなければ分らない筈の「二度突き」については、昭和二五年八月一日発付の逮捕状の被疑事実にも明示されている(原四丁)ものであり、原第一審検察官においても、最も強調する(論告四六丁うら)ところのものであるが、その内容は、香川が後で生き返ると困るので、心臓を突いておこうかと考え、香川の臍の上当りを股ぎ、チョッキや襦袢を上にまくり上げて胸部を出し、包丁の刃を下向けに右手に持ち、あばらの骨に当ると通らんので、刃の部分を自分から向つて斜め左下方を向けて左胸部の心臓と思われるところを大体五寸位突きさしましたが、血が出ないので包丁を二、三寸抜き(全部抜かぬ)、更に同じ深さ程度突き込み、一寸の間香川の様子を見たが、全然動かんのでもう大丈夫、死んだと思つて包丁を抜いた(原一、三〇一丁うら)と述べていることである。

右「二度突き」の自白を最初に得た(25.7.29宮脇調書原一、一六三丁)という宮脇豊或は田中晟は誘導しようにも、鑑定書(25.8.25作成、25.8.27受理―原一三一丁)を見るまでは、体内で傷が二つに別れていることを知らなかつた(原四五六丁)と述べており、これをその供述どおりに是認するかどうか見解の分れるところであり、当裁判所としては甚だ疑問(再九二〇丁うら)と考えるが、原第一、二、三審は右宮脇、田中証言を真実なりと認定したものであり、今においてこの証言を偽証と断定できる証拠はないので、既に「二度突き」についての請求人の自白を任意且つ真実であると認めた原第一、二、三審の認定を覆するに足る新らしい証拠はない。

(2)  しかし、当裁判所の疑問とするところを付言すれば、いわゆる「二度突き」の自白は、当初、請求人において、香川が、タンスの前で仰向けに倒れてからは手を触れなかつたといつていたのを訂正し、25.7.29付宮脇調書で、「実際は、(香川の)身体をまたぎ、口に刺身包丁を突き込み、又心臓と思われるところを着物をはぐつて、突き刺し、生き返らないようにした」(原一、一四九丁、一、一六二丁)、「包丁の切れる方を横(左の方)に向けて、大体五寸位の深さに突き刺しましたが、血が出てこなかつたので、心臓までとどいていないかと思いまして、突き刺した包丁を二寸位手元に引き、更に突いたのでありますが、突いた深さや方向は変つていないと思います。二回目の突きを引き抜いた処、その傷口から少々の血がでてきたように思います。それから私は抜いた包丁に、斬れるところ全部に血がついておりましたので、味が悪いから、「おぢい」の腰のあたりの着物で二回位、すごいて、ふき取りました(切れる方を着物の方にして浮かしてすごきました)」(原一、一六三丁)とはじめて供述するにいたつているのであるが、何故に取調官が、三月一日に実施せられた解剖の結果、即日判明したであろう「二度突き」の事実を八月末頃まで知らなかつたかの理由として、原第二審証人宮脇豊は、(原記録第四冊三〇九丁)鑑定の結果について、私は大体口の軽い方ですから大事なことが洩れてはいかんというので話してくれませんでしたと述べているが、警部補という地位にあり、しかも強殺事件という本件についても被疑者取調の主任とせられていた宮脇が秘密保持さえできない警戒すべき男であると上司より評価されていたというにいたつては、甚だ不可解で首肯できなく、また、当審証人藤野寅市(当時の三豊地区警察署長)が、「自分は二度突きの事実は知つていたが、取調官の宮脇豊(田中、広田を論外にしてか)にはその事実は知らせていない。それは取調官が先入感をもつからであつて、教えないのが捜査の常道である」(再一、〇三五丁)と極言するのは、いいすぎであり、裁判所を誤まらせるものではなかろうか。署長が教えなくとも宮脇らにおいて知り得る機会は絶無とはいえない(再一五九丁うら参照)し、現に当審証人広田弘は、「鑑定せられた医者の話では包丁がV型になつとるのは、どうも納得できんといつたということを外の者から聞いて、それだつたら、二度突いたのでそうなつたのだろうと私達は思つたのです」(再七八四丁)と述べている。更に先入感がよくないというのであれば、「ゴツトリ」の突ききず、被害者顔面の新聞紙、胴巻の所在場所等取調官宮脇豊には全く知らされなかつたというのであろうか。現に新聞紙、胴巻のことを追求している(原一、二三〇丁うら)。いやしくも元警察の高級幹部であつた者の証言として、もう少し納得できる説明が欲しいものと痛感するものである。

九、現金一万三千円位の強取について、

(1)  本件殺人事犯は、発覚後、直ちに被疑者不詳に対する強盗殺人事件として捜査が開始せられている(原六九丁)が、被害金額一万三千円位―原一、二二三丁―(最初は、百円札で一万六千円、十円札で二千円といい、その後二万円足らずといい、更に一万三千円と供述が変更されている)というのは、請求人の自白のみで、これを裏付ける直接の証拠はなく、闇米ブローカーであつた被害者が、儲がよくその程度の現金を胴巻に入れていたであろうと推測できないことはないという程度の間接証拠(原二〇五丁、二〇九丁)があるに過ぎない。

犯行の動機として、請求人が安藤良一と共に、前年の夏頃、香川重雄方で、現金一万円位を窃取することに成功したことがあり、しかもこれが発覚しなかつたところより、更に金員盗取を企てようとしたことは、更に請求人が、もう一度盗みに行かんかと右安藤を誘つている(原二六〇丁うら)ところよりしても、十分あり得ることと理解できるが、前回においては、現金は、新聞紙に包んで置いてあつたものを窃取したものであり、侵入口も密柑の木を登つて中二階より侵入した(再四九三丁)ものであるが、本件においては、「ゴツトリ」を外部より刃物で突いて侵入しているところに手口に相違があり被害者が常時携帯していたというその胴巻は、事件直後の検証において、前記のとおり被害者のズボンと共に(その内側に)吊つてあつたのが確認されており(原七八丁うら)、屋内物色の模様は枕許付近において、幾分取混ぜた形跡は認められているが、室内西側の箪笥は、各抽斗ともに物色の形跡は認められなかつたもので、右検証の結果によるも、被害者の着衣は乱れてはいた(とどめをさしたときの衣類の乱れとも考えられる)が、胴巻を被害者の腹部より取外した形跡が認められたかどうかは明らかにせられてない。更に、死体の腹部には出血傷がない(原一三六丁うら)としても、出血多量で被害者の着衣に相当量の血痕が認められ(原一一五丁、一一六丁)、しかも証一一号のメリヤスシヤツ、証一二号夏メリヤスパンツには被害者のものと認められるO型血痕が検出されておる外(原四〇三丁以下)、その血痕付着の部位(原四〇九丁)よりすると、腹に巻いていたという胴巻に、血痕が付着していると推認できるのに、これが付着していない理由について、深く検討された形跡のないところよりすると、現場検証の結果のみから直ちに、財布入り胴巻が、本件の犯人により被害者の腹部から、衣服かけに移動させられたと断定するには大いに疑問があるといわざるを得ない。

(2)  しかも、第四回自白調書によると、請求人は、包丁で被害者を突き、包丁や手についた血を被害者が着用していた布切れのようなもの(腰巻)でぬぐい、包丁を右手に持つたまゝ、左手で着物を両方に開き、チヨツキや襦袢を上にまくり上げ、へその当りに巻いていた白木綿の胴巻の結び目をほどき、左手で胴巻の端をつかんで引き出し、胴巻の口を右手で持ち、左手を胴巻の口に突き込んで財布を取り出した。二つ折りの財布(木綿製と述べたこともある―原一、一六五丁)の中には百円札が二つ折りにして厚さ約一寸位あり、十円札、五円札は折らずに厚さ約一寸位あり、百円札も十円札も、二つ(折り)の浅い袋に入れてあり、深い袋の方には小銭らしいものがあつたが、盗んでもつまらんと考え、百円札と十円札全部(百円札で百十枚位、十円札、五円札で二千三百円位あつた―原一、三〇四丁うら)を国防色中古ズボンの左横ポケツトに入れた後、財布は元のように胴巻に入れて寝室と座敷の境の上の方にあつた着物かけの向かつて、右の一番端の二番目当りのところにかけた(原一、三〇〇丁うら)、胴巻を着物かけにかけたことは、犯人でないということを装うため、今迄の取調に対しては、殊更知らぬように(その場に捨てたと述べている―原一、二一九丁、一、二三一丁が、宮脇八回調書においては、処分を追及している―原一、二四六丁うら、なお中村一回調書―原一、二六〇丁、中村二回調書―原一、二六六丁参照)申してきた(原一、三〇二丁うら)と述べているが、胴巻、財布共に洗つた形跡はないのに拘らず鑑定の結果によると、着用時に付着したと認められる血痕は勿論、これらに犯人の手が触れたことによる血痕の付着があるとは認められていない。(遠藤鑑定によると、革財布のほぼ中央に「ルミノール」発光反応を示す暗褐色のけしの実大の斑点があつた(原一四九丁うら)とされているが、血のついた指の接触によるものとは認め難い。)

しかも、請求人は、札の裏側に指でつけた血痕が一点あるものがあつた外、二、三枚の札の横に血がついていた(原一、三〇九丁)と述べている。

胴巻、財布に血痕がないということは、胴巻が被害者の腹に巻かれてはなく、本件殺人犯人が胴巻、財布には手を触れてないのではないかとの疑問(再九一八丁)も否定できなく、しかも財布入りの胴巻がその場に放置されず、八九円四五銭在中のまま、着物かけにかけてあつたということは、強盗事犯の現場状況としては、奇異な感じを受けるものであり、何等裏づけのない強取紙幣に血がついていたとの自供は虚偽ではなかろうか。(再九一八丁参照)これらの点につき原第一、二審は、どう考えたのであろうか。

(3)  更に、強取した現金の使途につき、請求人が、「香川を殺して盗つた一万三千円余りの金は、犯行後二、三日より、四月一日神田村の強盗傷人事件で検挙されるまでの間、琴平町、財田村等の飲食店、映画見物その他に約五、六千円使つたが、その模様は今までの取調(原一、一六九丁)で述べたとおりである。この金を使うに当つては、一度に沢山使つては人目につくのでできるだけ少額あて使うようにしたが、一方、宮坂屋飲食店等では、代金を殊更借りて見たり、多田安次から五百円を前借りしたことは、これまで述べたとおりであつて、このような方法をとれば、香川殺しの嫌疑もかゝらぬと考えたからである。

香川で盗つた金(全部使つたともいつていた―原一、二二九丁)のうち残額約八千円の処分については、今まで隠してきたが、この金は使つておらず、四月一日午後六時頃、神田村農業会の強盗傷人事件の容疑者として、三豊地区警察署の人達が、家宅捜索および逮捕にきた際、その前の強盗未遂事件の時、警察官が私方へ来てすぐ捜索をした点より考えて、また捜索されるだろうと思い、その場合発見されると困るので、八畳座敷の間で服装を取り替える時、私の背広の内ポケツトに入れてあつた百円札約八十枚位を私の黒色オーバーの襟の内側の小さなポケツトに丸めて差し込んで隠した。勿論このオーバーは家に置いておく考えであつたが警察へ連れられて行く時、警察官がオーバーを着て行くようにいつたので、仕方なくそれを着て、警察官七、八名と共にトヨペツトに乗つたが、警察へ行けば身体検査をされるので、当然その金も見つけられ、香川事件も発覚する恐れがあるので、警察へ着くまでに何とか金を処分しなくてはならぬと考え、暗夜を財田から観音寺行きの県道を走る途中、財田村中村の小野精米から約半丁位左寄りの道に差しかかつた際、警護員に気付かれぬようオーバーの内ポケツトから金を抜き出し、(両手錠はかけていた筈である)、斜め左向きになつて、ほろの窓よりつばをはくような風をして、ほろと車体の間に指を差し入れ金を落した」(原一、三〇七丁)と述べているのは、使途(原第一審における請求人の供述―原四六三丁うら参照)としては、必ずしも明確ではなく、(原五七九丁、五八三丁、五九五丁、五九九丁、六〇四丁、六一三丁、六一九丁、六二三丁、六二七丁、六三二丁、六三七丁、六四二丁、琴平の遊廓で使つたことも考えられるが―原一、〇〇三丁裏付けがない―原一、一一三丁)、特に当時八、〇〇〇円もの札を、逮捕連行警察官数名の監視の下で、気づかれないように、そつと車外に投棄できたかどうか甚だ疑問であり、これが可能であるかどうか実験したというが(再一、〇三六丁)、その資料も取調請求がされていない。また右八、〇〇〇円を拾得した旨の届出もない(原一、三三三丁、再八二〇丁)ところよりすると、請求人の右供述の真実性はたやすく信用できない。

しかも、請求人が、残金八、〇〇〇円位を持つておるのに拘らず、本件の強殺犯人が未検挙で、警察が捜査に奔走していた時期に、請求人が、「服を作つて金がいる。何処か良い所はないか」と石井方明にいつて、余り離れていない神田農協に強盗に入るようになつた(再七九丁うら以下)というのは、特段の理由がない限り、犯罪人心理としては通常ではない(再九一七丁うら、原一、〇六二丁参照)と考えられるのではなかろうか。

一〇、昭和二五年八月一九日夜間における検察官の実況見分について、

(1)  中村正成主任検察官は、請求人を立会させ、任意に実演をさせるため(論告四八丁)、現場の状況を見分している(原三〇二丁)のに、調書作成の義務はなく、検察官の心証を得れば足るとして実況見分調書を作成していない(原四六三丁、再一七六丁うら)という。

それならば何処に、警察が「被疑者の供述の信(心)証を得るため」に作成したとされている昭和二五年八月一八日付実況見分調書二通(原四一丁、四五丁)、及び同日撮影したという写真一五葉を公判に提出したのであろうか。また、何故に検察官は、起訴後であるにも拘らず、八月二五日に第五回調書をとり、現場写真等を示して、犯行の状況等につき説明を求める必要があつたのであろうか、すべて公判維持のためではないか。

しかも、原審検察官は、論告において(一四丁)、「捜査官側においては終始一貫、被告人の片言隻句と雖もこれを無視おろそかにせず、その述べるがまゝの言葉を一応真実として尊重し、煩をいとわず、逐一その具体的な裏付捜査に従事し、被告人の弁解主張の確否を調査した」と述べているが、検察官といえども、本件の場合捜査官であつた筈である。

本件の如き物的証拠が少なく、自白にのみよらなければならない特殊重大事件につき、犯人が犯行の模様を実演をし、指示をした(原三〇三丁以下、四八二丁うら、五三七丁、再一、〇三九丁)というのであれば、公判維持のためそれを調書にとり、且つ写真に撮影して証拠保全をするということに考えつかなかつたのであろうか。(警察においても現場指示はさせてないのである―再一、〇四〇丁)検察官の捜査の瑕疵といわざるを得ず、本件の真相究明上遺憾であるという外はない。

(2)  しかしながら、八月一九日夜、請求人が炊事場入口の戸の「ゴツトリ」のところを見て「あつ」と声を出したこと、(この意味をいかに解するかは問題ではあるが)胴巻はどこに吊つておいたか、死体の位置など聞かれた(再四一六丁、九一九丁うら、一、〇三九丁、原四五〇丁)こと、八月二〇日に、請求人が、看守の巡査に対し、「ゆうべはえらいめに会つた、もう全部いつてしまつたから、煙草をすわしてくれんか」といつて、それから安心したような態度で横になつて寝てしまつた(原二一四丁以下)旨の岡沢忠一証言があるところよりすると、請求人が、八月一九日夜現場で、自白をひるがえし、犯行を否認したものとは断定できなく、その二日後には、しめくくりの第四回自白調書ができていることも考え合せると、現場における請求人否認のために実況見分調書が作成できなかつたものとも認定できない。

一一、第四回自白調書と自白の任意性、真実性について、

昭和二五年八月二一日、高瀬警部補派出所において、検事中村正成が請求人を取調べ(再九九六丁)、検察事務官高口義輝がその供述を録取したとされている(再二九〇丁)第四回被疑者調書は、三三枚、四四項にわたる大部なもので、それ以前における警察、検察庁における取調の結果を集約、整理補足したものであつて、請求人の自白調書としては、内容的に最良のものと認められるので、原判決はこれのみを証拠に掲示したものと解せられる。

(1)  警察における請求人の自白は、取調官の温情と情理に感じ涙を流し、或は良心の呵責に堪えかねて(原四三八丁うら、四七六丁うら)自白したものであるとはいえ、全面的自白ではなく(原二八六丁、二九六丁)、着用の上衣、黒皮短靴、兇器、胴巻、財布、顔面の新聞(追及はしているが―原一、三四六丁、一、二六七丁うら)賍金の使途等に関する自白につき問題がある外、本件捜査の過程における請求人の割り出し状況、二度にわたる別件逮捕による勾留中の自白、自白内容の変遷、裏付証拠の不足等の諸事情を勘案すると、宮脇豊らに対する自白の任意性、真実性に問題があり、これと関連して、右第四回自白調書の任意性、真実性にも疑問なしとしない。

(2)  請求人は警察における取調状況について、当審において、拷問の一例として、誰もいない二階の片隅で、「手に手錠を二つかけて綱をかけて持つており、足にはロープをぐるぐる巻きにして正座させ、(四、五回ある)何時間もたつと血が通わない、めしも減食され、睡眠は不足で警察官(宮脇、田中)のいうとおりになつた」(再六四丁、四〇一丁うら、四〇三丁うら)。

七月二六日自白したとき、テーブルを隔てて宮脇が前におり、田中はその横にいた、そのときは拷問をおそれていたし、自暴自棄になり、どうなつてもよいという気持であつた(再四〇六丁うら)。

自白後は、たばこを買い、官舎に行つたときには、キヤラメル、ビスケツト、たまご酒を貰い、白米の増食をして貰つた等述べ、(再三九六丁、四〇五丁)更にこれらの状況は、原第一、二審においては、田万広文弁護人に制せられて、いわなかつた(再八八五丁うら)が、これではいけないと思つて、上告趣意書に書いた(再八七三丁)と述べている。

原記録(一、二審共)を精査すると、特に被告人を尋問して、取調状況等を含め被告人の弁解を聞いた形跡はない(原二二一丁参照)。勿論取調状況というようなものは水掛論になりやすい問題ではあるが、取調官のみを尋問して被告人よりは、詳細にして具体的な弁解を聞かないというのでは、裁判所としては正に片手落であり、公平らしささえ認め難いのではなかろうか。被告人は罪責を免れるために、色々と虚偽の弁解をすることがあるとはいえ、被告人尋問をしていない原審の審理経過を当裁判所としては不可解と考えるものである。

しかも任意性の判断規準は、刑訴法三一九条一項の文言どおり「任意にされたものでない疑があるか」否かで決すべきものと解するのに、原第二審が記録と宮脇証言から不法不当な取調はないと断定したのはいかがなものであろうか。

(3)  更には請求人の警察における供述の変遷について、前記指摘以外にも次のようなものがある。

(一) 犯行当夜、被害者方に向け出発するまでの行動について、当初は(原一、〇九六丁)、午後七時半のバスで宮坂屋へ友人の安藤良一を本件犯行に誘うべく(原一、〇九四丁)行つたが、不在であつたので、近くの恋人大久保律子(一九才)を訪ねた後、宮坂屋で、近藤某と酒を飲んで、午後一二時過頃、同所を出発して帰宅し、家に入らず、刺身包丁をもつて香川方に行つた(原一、〇九九丁、一、一二三丁うら)と述べていたのを、宮坂屋行を否定し、(原一、一四七丁、一、一五二丁)午後八時頃、自宅座敷を出て東側の風呂場で四、五時間考えて強盗計画を練つた(25.7.29付宮脇調書)と訂正し、25.8.2付宮脇調書以降は、更に午後八―九時頃、弟孝と一緒に寝床に入り、一一時―一二時頃起きて家を出た(原一、一八三丁)と変えている。

なお、兇器である刺身包丁の隠匿場所についても、当初炊事場の「ひだな」に隠していた(第一乃至五回)と供述していたのを、その後風呂場の焚口の上の養蚕用の木の下に隠していた(原一、一八四丁)と訂正している。

(二) 侵入経路について、当初は(原一、〇九九丁)、「表(東)の密柑の木から(前に一万円を盗んだ時の這入口)屋根に登り、二階の障子窓を外へ外して二階に這入り」と述べ、(原一、一二五丁)、二階の窓の障子戸には手袋をはいていなかつたので指紋が残つていると思う(原一、一三七丁うら)と述べていたのを、25.7.28付田中調書で、「賊はドスで戸をこじ開けてあるということを聞いていた」(原一、一四四丁うら)と述べた後、25.7.29付宮脇調書で、「香川方に侵入する場所は、前回は二階の場所からと申上げましたが、実は釜場の半間の雨戸のゴツトリ付近を刺身包丁の先で三、四回位突いてから押し開き、家の中に入つたのであります」(原一、一四八丁、一、一五七丁)と訂正している。

(三) 請求人が25.8.2付宮脇調書まで、兇行に及ぶに際し、「オイオイ」と左手でゆり起したところ、「オジイ」が目を開けて刺身包丁を見て「何するなら」と右手で握り、私が手元に「シヤクリ」ました(原一、一八六丁)と述べていたのを25.8.5付七回宮脇調書で、(原一、二一四丁)、私は、殺すことを決めて後、もし顔を見られたら殺し損なつたら困るので、とつさに髪を前にたらして目から上は長髪でかくして、人相を見破れないようにして、オジイの向つて左側に中腰になり、右手の刺身包丁で無言で口を刺そうと突きましたが、髪がたれていたので見当がくるつて、向つて右の「アゴ」あたりに刺さりました。一突きすると同時に目をさまし、同時に「ウワアー、ウワアー」といいつつ右手で包丁をにぎつたので、取られては大変ですので、手元に「シヤナグリ」のけましたと訂正している。

以上のような供述の変更は、記憶違い、思い違いをするような事項ではなく、また当初何のために敢て虚言をいつたのかその理由の推測さえできないものである。

(4)  しかし、当裁判所としては、前記の如き疑問を懐きつつも請求人を直接尋問してその弁解を聞いた結果および原審記録を綜合すると、次の事実が認定できる。

手錠をかけたまゝ監房外の井戸端で洗顔をさせたことは、逃走のおそれを認めた際、一度あり(原二八七丁うら、四三九丁うら)、酒、煙草で特に歓心を買つたことはないが、大食家であつた(原九八九丁うら)請求人に対し、米を請求人宅より一斗五升位持参させて加食した(原二九〇丁)現金の差入れも許した(原二九〇丁うら、四四一丁)、八月一九日検察官による現場調査の際、逃亡防止のため手錠の外、捕縄で両股を縛して(原四四九丁)連行した等の事実は明らかにされており、原第一審検察官も、これらの点につき詳細な論告(一五丁うら以下)をしていること、

請求人は、自ら第一審証人田中晟に対しては、「手錠をかけたのは一回しかないというが、三回か四回もあり、両足をしばられ、正座させられて調べられたこともある」と質問している(原四六二丁)こと、

請求人は、25.7.26付宮脇第一回調書以来三回にわたつて一部自白をしていたのに、25.7.28付田中調書(原一、一三九丁)において、自白をひるがえし、(原一、一四〇丁)、「私は何んにも知らないのですが、実は香川の爺が殺されたことについて、当時、私の両親や友達や近所の人から聞いて知つていた点や、又私方には四国新聞をとつているので当時事件のことを新聞記事に発表された(再八四六丁以下参照)ことをうすうす覚えていたので、それらを取り混ぜて、私が犯人の如く申しただけであります」と述べていること、

取調の警察官がすべて不当な取調はないと証言していること、

以上の各事実およびその他諸般の事情を綜合すると、原第一、二、三審が、請求人の自白に任意性を認めたことを敢て違法不当であると断ずることはできなく、また原第一審判決に引用されている第四回自白調書についても、その任意性、真実性がないとの強い主張が排斥せられているのも、見方によつては、あながち不法ともいいきれず、当審における事実取調の結果によるも、右調書が請求人主張の如く検察官の偽造であると認める証拠はない(当審において、請求人は、検察庁の調べの際白紙に拇印を押した記録はない―再四二五丁、中村検事が、話し合つたことを書いたのを見ながら、口で事務官に話しながら書かしていた―再四三四丁と述べている)。

(5)  しかし、右調書三四項ないし四三項(原一、三一三丁以下)には、本件の証拠物たる証一号ないし二八号を請求人に示して供述をさせた記載があるが、昭和二五年第一八四号領置票謄本(再一九四丁)備考に「証一四(胴巻)、一五(革財布)、一八(進駐軍放出国防色上服)、一九(軍隊用袴下)、二〇(国防色ズボン)、二一(国防色綾織夏服)、二二(ゴム製黒バンド)、二三(白木綿長袖シヤツ)、二四(靴下―緑赤青の柄入)号は、鑑定中(受入は25.8.23現在)である。以上8月29日送付された旨記載されているところよりすると、八月二一日作成の右第四回調書に右鑑定中の証拠物を示したと記載してあるのは誤りではないかとの疑問があり、「調書に書いてあるのだから、ちやんと見せたのでしよう」(再三〇〇丁)というような高口証言では納得できない。

この点につき、当審検察官は、「昭和二五年八月二三日に、請求人の勾留期間が満了するため、事前に請求人に対し、右証拠品を展示する必要から、特に、警察官に対し、それらの証拠品を右岡山大学から高瀬警部補派出所に持ち帰えるよう指示し、同月二一日以前に、これら証拠品が同所に持ち帰えられ、中村検事が、第四回調書記載のとおり請求人に展示したものと主張する(再三二九丁うら)が、一時借用し展示したと認められる明確な証拠はなく(再三八三丁)、また、当時の証拠品係津田博の昭和四五年五月七日付報告書(再三四六丁)によると、右検察官の主張とはそごするところがあり、証拠品係により正式に受け入れられていない岡山大学より便宜上持帰つたという(再三八四丁、三八六丁)証拠品にどうして、検察庁における通し番号が付せられていたのか、疑問は解明されていないことを指摘しておく。

一二、アリバイの主張について、

本件強殺事件発生当夜、請求人は自宅八畳の間で、いつものとおり、弟孝と一つふとんで寝ていたのが本当であるのに、請求人が、昭和二五年七月一四日警察で、弟孝に対し、寝ていなかつたというてくれと頼んだ(再四〇〇丁以下)ことにより、アリバイの主張が認められないようになつたというもののようであるが、アリバイの主張は、原第一審以来最も強く主張され、最も慎重に審理されたものであるのに拘らず、遂に認容されるにいたらず、原第二審判決はその理由を詳細に説示している。その後、アリバイ成立を認めるに足る新証拠もない。

そもそも、夜遊びも多く、深夜に帰ることもあつた請求人の二月二七日前後の行動を日時の経過した後になつて、立証しようというのが無理なことであり、原審記録を精査し、当審における事実取調の結果を併せ十分に検討しても、請求人を無実であると断定する決め手となるような不在証明は認定できない。

一三、公判不提出記録の紛失について、

右記録は、死刑執行上の必要から、既に昭和三四年五月頃、法務省刑事局よりも送付を求められたものである(再三三六丁)が、当時においても発見できなかつたものであり、その紛失理由について、原審判決が、起訴当時より六年五ケ月の長期間を経過して確定したため、その間における主任検事の転勤並に係事務官の異動等により、該記録の所在が不明となつたものであり、あるいは別件強盗傷人事件の確定記録の廃棄処分をした昭和三一年一一月三〇日に、誤まつて同時に廃棄したのではないか(同日付廃棄記録目録にはない)と思料されるという(再三三六丁うら)のであるが、証拠品処分も未処理であつた段階で相当ぼう大になつていたと思料される公判不提出記録が紛失、あるいは廃棄せられるということは(再三四〇丁)、事務処理上の過誤としては、甚だ異例のことであり、請求人側よりすると、証拠いんめつとの不信、疑惑が生ずるのも止むを得ないものと考えるが、それだからといつて、記録を故意に廃棄または隠匿したと認めるに足る証左はない。

しかも、二〇年の経過により既に物証ともみられる右記録の紛失が、本件再審請求事件の審理において余計な事実調を重ねさせ、しかも、真相の把握さえできない結果を生じさせる一因ともなつていることは誠に遺憾である。しかし、当審検察官より現観音寺警察署保管にかかる検察庁に送付しなかつた

財田村強盗殺人事件捜査状況報告書綴 二冊

同右   関係人供述調書綴     一冊

が提出されたので、これを精査すると、初動捜査の状況の一部は明らかになつたものの、右公判不提出記録さえ存在すれば、当審が前記のように指摘した疑問の数々も或は氷解できたのではなかろうかと考えると、この意味においても甚だ残念に思う次第である。

第五、結語

以上、要約して、当裁判所は、刑訴法四三五条以下に規定する再審請求事件の審理としては、考えられる限りの審理をつくし、必要にして十分とせられる以上の判断を敢えてしたが、これは、本件が事件発生後実に二二年余、死刑判決確定よりしても一五年余も経た事件であり、しかも無罪を訴えている請求人に対し、事実取調の間、弁護人の関与もなかつたことをも考慮したためでもあり、再審請求を契機に本件の真実を再究明することは、現時点において、当裁判所に科せられた責務であると考えたことによるものであるが、審理を重ねた結果は、力及ばず遂に真相解明というには程遠いことに終わつた次第である。

よつて、本件再審請求は、刑訴法に定めるいずれの再審理由にもあたらず、その理由がないものとして、刑訴法四四七条一項によりこれを棄却することとし、主文のとおり決定する。

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